2015年10月22日木曜日

チェンニーナ事件

1954年11月1日/イタリア/トスカーナ州アレッツォ県チェンニーナ
Cennina, Arezzo, Toscana, Italia

概要

事件を伝えたタブロイド紙のイラスト
小人宇宙人が女性からストッキングと花束を奪う!

詳細

農夫のロッティ夫人が森の中で奇妙な紡錘形の物体と、二人の「小さい人」に遭遇し、手から花束とストッキングを奪われたという奇怪な事件。
遭遇の前後にも多数のUFOが目撃されているので、以下、出来る限り時系列に沿って出来事を並べてみた。

午前6時頃、アンドレア親子のUFO目撃

イタリア中部、フィレンツェの50kmほど南西に位置するトスカーナ州アレッツォ(Arezzo)県でのこと。
11月1日の午前6時頃、まだ日の出前の薄暗い時間。
小型トラックを運転中のアンドレア・リヴィ(Andrea Livi)は、カパンノレ(Capannole)北側で、赤っぽい円錐形の物体が、赤い飛行機雲のようなものをたなびかせて飛行するのを目撃した。
一緒に乗っていた息子のヴィットリオ(Vittorio)を起こすと、二人でしばらくの間その様子を観察した。
物体は南東の都市シエナ(Siena)の方に向かって飛んでおり、木の陰に消えた。

注:資料の地図によれば、実際の飛行方向はシエーナよりずっと南寄りだったようだ。

午後になり、親子がアンブラ(Ambra/一連の事件の中心となったチェンニーナ(Cennina)の隣村)に帰宅した時、数人の人達がひしめいていた。
何があったのかを尋ねたところ、「誰かが火星人に会ったんだ」と教えられた。リヴィはとっさに、自分が今朝目撃したものに関係があると気付いた。
彼は翌日、憲兵(カラビニエリ(Carabinieri)と呼ばれる)の大尉から、事情聴取を受けることとなる。

午前6時10分頃、石工のUFO目撃

午前6時10分ごろ。
ロミュアルド・バーティ(Romuald Berti)という25歳の石工が、小村のルピアーノ(Luppiano)(別な情報によればガヴィニャーノ(Gavignano))で、明るいロケットのような飛行物体を目撃した。
物体は北西のチェンニーナの方から、南東の方角に音もなく飛んでいた。
後日、新聞は、遭遇事件があったチェンニーナの同じ丘から飛び立ったと報じた。

注:これも資料の地図によれば、実際の飛行方向はかなり南南東の方向だという。
また、目撃時刻に誤りがないのなら、一連のUFOは複数存在したか、1機が行ったり来たりしていたことになる。

午前6時30分頃、いくつかのUFO目撃証言

この時間、付近の何人かの人物によって、奇妙な飛行物体が連続して目撃されている。
資料の記述に沿って全て6時30分頃としたが、次に紹介するロッティ夫人の遭遇に沿うなら、特に飛び立つ場面の目撃は記憶違いで、実際は7時前後の出来事と考えるほうが自然だと思う。目撃されたUFOが全て同一のものであるなら。

付近の男性の目撃

付近の村サン・レオニーニョ(San Leonino)で働く男性が、森から1kmほどの地点で、奇妙な明るい物体が遭遇事件現場の低い丘の方に下降するのを目撃した。

二人のハンターの目撃

二人のハンターが、遭遇現場の森から飛び立つ何かを目撃した。

ビアンキ氏の息子の目撃

後年のロッティ夫人への取材によれば、ビアンキ(Bianchi)という男性の息子が、近くの村からやって来たところ、ロッティ夫人の遭遇と同じ森から、炎を上げる物体が飛び立つのを目撃していたという。

午前6時30分頃、ロッティ夫人の前代未聞の遭遇事件

午前6時20分、ロッティ、家を出る

小人から返してもらったストッキングを見せる、目撃者のロッティ夫人
この11月1日(月曜日)は、カトリック教会の祝日・万聖節(現在は諸聖人の日と呼ばれる)である。
小さな田舎町チェンニーナに住む農婦、ローザ・ロッティ・ネイ・ダイネリ(Rosa Lotti nei Dainelli/40)は、教会へ行くために朝早く家を出た。時刻は6時20分頃だった。
夜明け前のまだ薄暗い時間で、太陽は地平線の下5度付近にあった。6時40分の日の出(太陽の一部が地平線から少しでも出る時刻)前の、薄明期だ。
星図では月はなく、うしかい座のアークトゥールスが東北東の空19度に出ている。
その日の気象情報によれば、この地方の天気は、穏やかなにわか雨をともなう、どんよりした曇りだったという。(ただし、関係者らへの調査では晴れだったという)
当時の東の空
彼女の住むラ・コリーナ(La Collina)農場は、チェンニーナとカパンノレ(Capannole)の間の孤立した森の中にあり、まだ電気も通っていないような所だった。

彼女は4児の母で、農場での作業が忙しくめったに町に行くことはなかったが、今日は万聖節のため、聖母マリアの祭壇に参拝する行事が予定されていた。
彼女は新しい服を着て、靴を汚さぬよう裸足になった。片手に靴とストッキング、もう片手には祭壇に供えるカーネーションの花束を持ち、町の教会まで森の中の小道を歩いていた。
※注:靴をはいていたという資料もある。

そこは「アンブラの小山(Poggio d’Ambra)」と呼ばれる灌木の生えた小さな丘になっていた。
彼女のそばに、二頭のラバが歩いていた。
ここはたびたび通る勝手知ったる場所で、これまで変わったことがあったことはなく、しばしば夜にも通ったことがあった。

奇妙な物体を発見

遭遇現場写真
現場写真。糸杉が見える。2006年撮影
丘の頂付近の空き地に着く50mほど手前で、ロッティ夫人は茂みから何か妙なものが出ているのに気付いた。彼女はそれを、近くの建設現場で送電線を張る作業員の道具箱ではないかと思った。
しかし近づいて見るほどに、それは奇妙なものだというのがわかった。

糸杉の10mほど先にあるその物体は、以下のようだった。
  • 二つの円錐を合わせたような大きな紡錘形で、鋭い輪郭
  • 高さ1.7〜2mほどで、地面に垂直に立っている
  • 紡錘形のふくらんだ部分は直径1.2mほど
  • 鈍い茶色で、磨いたエナメル革のような、なめらかで輝く表面
  • 中央より上に、ガラスでできたような、表面から出ない形のタマゴ型のハッチ
  • 下の円錐の方には、四角い開口部
  • 側面に二つの同じ色の丸い窓があり、表面と同じ材質(ただしこれに関しては、多くの情報源で報告されていない)

小さい人達との遭遇

小人の再現イラスト
突然物体そばの茂みから(背後からという資料もある)、二人の生物が出てきて、彼女の行く手を遮った。
彼らは北北東の方角にいて、東を向いて道に沿い、それにロッティが続く配置で並んでいた。
あと10分ほどでロッティの右方向から日の出するが、太陽はおそらくは雲によって隠されている。

彼女が短い間にじっくりと観察したこの「小さい人達」の特徴は、以下のようだった。
  • 身長は1m以下
  • 均整の取れた体で人間のような姿
  • 非常にハンサムであるように見えた
  • 一人は40歳くらい、後でロッティとやり取りをしたもう一人は50歳くらいに見えた
  • 目は青く魅力的で、知性が感じられた
  • まぶたは普通にまばたいていた
  • 口はわずかに開き、上唇が鼻に近く、常に歯が見える状態
  • 歯は使い古されたかのように小さく鋭く、ウサギのように少し突き出ていた
  • 中国語に似た発音の未知の言語で「リウ、ウイ、リオイ、ラオ、ルイ、ウイ…」などと話す
  • 小さい人達はたえず微笑んでいた
  • 兵士のようにぴったりとした服
  • 高い襟に第一次世界大戦の兵士のような、光る星形のボタンが付いた、グレーのジャケット
  • 袖の上に階級章のようなもの
  • 肩の上から腰くらいまでの短いグレーのマント
  • 冬に男性が履く羊毛下着のような、ぴったりしたズボン
  • 楕円形の靴
  • 革に似た素材で、ヘッドホンのような円盤状のものが耳から耳に渡っているヘルメット
  • 若干の髪の毛がヘルメットの下に見える
  • 顔は髭剃り後の男性の肌のような陰影がある

より髪の黒い、年上に見える方が、親しげにロッティに話しかけてきたが、言葉が一つもわからない。
「それは中国語のように聞こえました」
彼女とコミュニケーションを取ろうとしているのだけは明らかだ。

合成写真による身長の比較
再び微笑みながら、その「小さい人」は、いきなり彼女の右手からカーネーションの花束とストッキングを取り上げた。
彼はそれを眺めると、物体の方に歩いて行く。
ロッティは後を追い、ストッキングだけでも返すようにおどおどと抗議した。
生物は彼女の要求を一応理解したようで、カーネーションを5本だけ残して返した。
彼は花に満足したように、もう一人と活き活きと話をした。
年上の生物が物体のハッチに手を置くと、それが開き(すでに開いていたという資料もある)、靴下で花を結ぶと、中に投げ込んだ。
ロッティはあらためて「靴下が必要だ。素足で教会に入るわけにはいかない」と抗議した。
しかし小さい人達はわからない様子で、再び「リウ、ウイ、リオイ、ラオ、ルイ、ウイ…」などと繰り返した。
まるで小鳥かリスがキーキーと鳴くような会話で、少女と少年の中間くらいの甲高い声だった。

年下に見える生物は、内気でもう一人より気さくではなさそうに見えたが、二人とも終始穏やかだった。
この年下の生物は誰かが来るのを恐れているかのように、辺りを気にしていた。

UFOの中の様子

ロッティは怪物体から2mほど離れており、内部を一瞬だけ見ることができた。
狭いスペースに、背もたれのない、まるで子供用の小さい丸いイスが二つあった。一つはハッチの正面右、もう一つはいくらか高い位置にあった。
物体の中はとても窮屈そうで、ロッティは「パイロット達が入るのにとても苦労するだろう」と後に話した。

午前6時30分頃、ロッティの話し声が聞かれる

ロッティ夫人の夫によれば、遭遇現場空き地から200mほどにいた狩猟場の管理人ロッシ(Rossi)が、ロッティの話声を聞いていたという。
地形と植物のために、直接ロッティ達の姿は見えなかった。
ロッシは女性の声しか聞こえなかったので、気に留めなかったという。(200mの距離からでは、生物の声が聞こえなくてもしょうがないだろう)
数カ月後の地方紙に、同じ頃付近で豚の世話をしていたトルジーニ(Torzini)という6歳と9歳の兄弟がロッティと生物達のやり取りを目撃していたと報じられたが、子供達の空想であった疑いが強く、後の取材で、成長した本人達もこの目撃を否定した。詳しくは後述する。

小さい人達の「記念品」

生物は、物体のハッチのおそらくイスの下から、長さ20cm、幅10cmほどの茶色の、磨かれた張り子のような物(後の取材で、彼女はこれを「記念品」と表現した)を取り出した。(新聞紙のような白い丸いものが二つだったという資料もある)
生物はこれを1m離れたロッティの方に向け、写真でも撮るように、物と彼女を交互に眺めた。
生物はこの物を渡そうと、彼女にしつこく迫った。
昔から写真に撮られることが大嫌いだったロッティは心配になりだし、生物達に向かって「それをやめて! ストッキングを返して!」と言った。
そして彼女はなぜか茶色の物体が爆発するかもしれないと思い、身を震わせた。
「それは爆弾だったかも知れません!」
後のロッティの夫への取材によれば、彼女は圧縮空気のような打撃を感じたという。

午前6時35分〜40分頃/逃げ出したロッティ

事件を報じる11月3日付L’Unita紙
ロッティはチェンニーナの村に向けて、早足で逃げ出した。
数m先で振り返ると、生物達はまだ彼女のことを見ながら話をしていた。(100mほど離れて振り返ったらもう跡形もなく消え失せていたという資料もある)
この遭遇は5分ほど(10分という資料もある)だった。

午全6時40分〜45分頃/途中で狩りの最中の二人に会う

ロッティが歩き続ける途中、周辺で狩りをしていたベッペ・ゴスティネリ(Beppe Gostinelli)氏、アイダ・ビアンキ(Ida Bianchi)夫人の二人に出会ったが、彼女は何も話さずに町に急いだ。

注:前述の6時30分頃に息子がUFOを目撃したビアンキ氏と、このビアンキ夫人が家族なのかどうかはわからない。

午前6時45分〜50分頃/ヴァレンティ夫妻に会う

10分ほど後、チェンニーナに到着した。
村に着いたロッティはすぐ、友人のアニータ・ヴァレンティ(Anita Valenti)と彼女の夫に、たった今経験した事を話した。
アニータ夫人は、ショックのために顔色が悪く、震えてまともにしゃべれないロッティを家に招き入れた。

1993年の取材でアニータ夫人は、曖昧な記憶ながら、「教会に行く途中にロッティに会い、彼女から、生物のうちの一人が手からストッキングを奪い、もう一人に手渡した」と聞いたことを覚えていた。
また、二人の生物は物体に乗り込んで去ったという。

しばらく後、アニータ夫人の下を去ったロッティは教会へ向かった。

6時50分〜7時過ぎ頃/ヴァレンティ氏、現場に向かう

ロッティが教会に駆け込んでいる間に、アニータ夫人の夫のヴァレンティ氏が遭遇場所の森に向かった。

午前6時55分〜7時頃/ロッティ、教会へ

「なにか良くないことでもあったの?」まわりの人達がロッティを心配して声をかけてきた。
ロッティは午前7時に開いたばかりの教会で、地元のグイード・ベラルディ(Guido Belardi)牧師の腕に飛び込み、「私、一体何が起こったの!?」と動揺して尋ねた。
ベラルディ牧師はロッティを聖具室に連れて行き、イスに座らせた。
ミサの開始が遅れたため、何か起こったことに気付いた出席者達が聖具室に入り、牧師とともにロッティの話を聞いた。
1998年の取材に対し牧師は、曖昧な記憶を呼び起こし、小人達がオランダの木靴のようなものを履いていたこと、そしてロッティが飛び込んできてすぐ、シャベルと三つ又で武装した農民達がやって来たと言った。
この事はすでに村人たちがロッティの遭遇に気付いていたことをうかがわせる。
ベラルディ牧師は、ロッティからの告白を「火星からの生物との遭遇」として近隣の憲兵隊本部に電話連絡したというが、後の牧師への取材で、連絡したことを否定された。よって、誰が憲兵やマスコミに連絡したのかはわからない。

午前7時過ぎ頃/ヴァレンティ氏、目撃を報告

ヴァレンティ氏は、ロッティが牧師らに体験を語っている途中で教会にやってきて、「森を進むうち、とても明るい球体が空に上がっていくのを見た」と語った。
その飛行物体の底からは水素酸化物の炎に似たような火花が出ており、近隣の都市シエーナの方に向かって高速で飛び去ったという。

注:ヴァレンティ氏が現場に駆けつけた事は、ロッティ夫人へのその後の取材でも確認されたが、見たものに関しては、同じ資料(イタリアのUFO本)に空飛ぶ球体だけを見た説と、現場の穴だけを見た説があり、はっきりしない。

現場周辺地図


より大きな地図で チェンニーナ事件詳細マップ を表示

事件以来52年を経た2006年に、ようやく研究者らによって遭遇現場が特定された。それによれば物体のそばにあった糸杉はまだそこに存在したという。
ロッティ夫人が自宅から空き地まで歩いてきた道は、ほとんどわからなかったが、空き地からチェンニーナまでの道ははっきりしていて、当時の説明と合っていたという。
今回、詳しく書かれた本に基づいてマーカーしたので、かなり詳細な場所であると思うが、糸杉の位置まではわかっていない。

午前7時以降、事務員らによるUFOの目撃

テッラヌォーヴァ・ブラッチョリーニ(Terranuova Bracciolini)の事務員とその娘は、南東~北にかけて飛ぶ奇妙な物体を目撃した。
物体は弾丸が飛ぶような音を鳴らしながら減速し、地面に着陸した。

注:資料によればこの町はチェンニーナの約12km南西というが、地図上では同名の町はチェンニーナの北12kmほどにある。資料の勘違いだろうか?

午前7時??分頃/憲兵隊、ロッティの家を訪れる

連絡を受けたアンブラ村付近の憲兵隊のロッコ・ベンファンティ(Rocco Benfanti)軍曹、ネロ・フォカルディ(Nello Focardi)伍長が、さっそくロッティの家、ラ・コリーナ農場を訪れる。
彼女の息子は事件について何も知らされていなかったため、話を聞いて驚く。

ロッティ、家に帰る

ロッティは教会の礼拝には出席せず、家に帰る。
どのような経路で帰ったのかはわかっていないが、1976年の取材によれば、おそらく帰る途中で遭遇現場に寄ったと思われる。

注:恐怖の体験をした直後に一人で、しかも現場に立ち寄って帰るとは思えないのだが。証言内容がわからないが、おそらくはヴァレンティ夫妻あたりの付き添いがあったのではないか?

先に家に来て彼女を待っていた憲兵隊から事情を聞かれる。これが最初の公式な事情聴取である。

午前7時15分〜8時ごろ/牧師達や憲兵が現場に到着

事件の30分ほど後、ベラルディ牧師ほか数人が現場に行き、地面に穴があるのを発見した。
穴は幅10㎝、深さ10cm(もしくは15cm)。
先の尖ったものでつけられたように見えた。
新聞報道によれば、憲兵隊の下級准尉(軍曹とも)も事件の1時間後に現場に着いたという。

注:憲兵は、ちょうど付近で狩りをしていたアンブラ(Ambra(地名))のズリモ・ボタレリ(Zulimo Botarelli)警部という資料がある。

この証拠の穴は、現場を見に来た大勢の人達によってすぐに荒らされてしまったが、翌日には辛うじて確認できたという。残念ながら写真は残っていない。
事件の1時間ほど後、教会から帰ってきた母親から話を聞いた当時少年だったセルジオ・フェリシオーニ(Sergio Felicioni)も現場に行く。
セルジオ少年はの後の証言によれば、穴は直径10〜15cm、深さが20cmだという。
穴の周り全体が、何か非常に重い物が載っていたように平らだった。
穴の周囲に焼けこげがあり、車のブレーキを加熱したような、非常に強い臭いがした。
日時は不明だが、ロッティの当時5歳の娘も現場に行き、いくつかの小さい穴と、深い穴が存在し、近くの松の根本がこげていて、しばらくして枯れたのだという。
注:しかしこれらの焼けこげと臭いに関する証言は、極めて情報が少なく曖昧で、信憑性には疑問がある。

午後7時30分〜8時/牧師達の目撃

早朝にこんな事件があっても、その日は万聖節である。
ベラルディ牧師が他の聖職者、何人かの農民らとともに宗教的な行列を執り行っている最中、明るい白色で、紡錘形の物体が煙を出しながら、アレッツォからフィレンツェにかけて飛行するのを全員で目撃した。
物体は満月と同じくらいの大きさで、彼らはその日の朝にロッティ夫人が目撃したものと同じだと信じた。

夜、マスコミの取材を受ける

夜になり、ロッティは日刊紙Il Giornale del Mattinoの記者、ピエロ・レオナルディ(Piero Leonardi)の取材を受けた。
レオナルディ記者は、翌日以降も何度も取材に訪ねてきた。

午後9時00分頃、憲兵隊の事情聴取

ロッティはベラルディ牧師の家に呼ばれ、憲兵隊のエリオ・ロッリ(Elio Lolli)軍曹(ブーチネの部隊の憲兵)と国防省出身というもう一人の人物によって事情聴取された。
この聴取は翌日以降にも行われたという。これが2回目の公式聴取となる。

午後11時45分ごろ、男性が明るいUFOを目撃

チェンニーナの北東の町ブーチネ(Bucine)付近で、バイクで走行中の機械工マルセル・ピストッチ(Marcell Pistocchi)が、明るい球形の物体が、非常に低空を水平飛行するを飛んでいるのを目撃した。
それはまるで「溶接の光のよう」な激しい明るさで、日中のように地面を照らしだしていた。
この光は「中心のヘッドライト」と、そのそばのそれよりは暗い2つの明かりからなっていた。
物体は青みがかった赤い煙を発していた。
ピストッチは目撃に驚き、農家のコルセリ(G.Colcelli)と、彼の姉のトスカ(Tosca)を呼び、彼らも速い速度で飛び去る物体を目撃した。それは「ドアと同じくらいの大きさの、赤い卵」だったという。
突然そのライトが消え、何も見えなくなった。
1972年、ロッティの事件を調査していた地元のUFO団体によって、コルセリとピストッチに取材が試みられたが、ピストッチは事情聴取を拒んだ。
いずれにせよ、事件を評価するには情報が不足している。
注:コルセリはなんらかの回答をしたのだろうか?

深夜12時頃、二組の人達のUFO目撃

二組の人達(片方はチェンニーナ、片方は近隣のピエトラヴィヴァ(Pietraviva)から来た)が、明るく、青と赤に色を変える球体を目撃した。
球体は滞空した後、小さな丘の方に降下し、再び滞空した。その後まもなく、物体は北西の方に進んでいった。
この目撃は、マスコミでのみ報告された。

注:つまり研究団体などによる取材はされていないということのようだ。

11月2日、憲兵隊の事情聴取

チェンニーナの北にあるモンテヴァルキ(Montevarchi)の憲兵隊の指揮官で将校のマッサーロ(Massaro)大尉がチェンニーナにやって来て、ベンファンティ軍曹、エリオ・ロッリ軍曹とともに、ロッティを長い時間かけて事情聴取した。
その後、憲兵隊とロッティは、遭遇現場を訪れ、様子を再現した。
最後に、彼らはもし話が嘘だった場合、今のうちに取り消さないと罰せられることを警告したが、ロッティはそのまま宣誓供述書にサインをした。

マスコミと野次馬に気分を害したロッティ夫人

ロッティ夫人の家族。子供はもう一人いる
ロッティの所には遭遇の後、数ヶ月にわたって何人もの記者が訪ねてきた。
中には彼女が幻覚を見たことを示唆し、貧困と無教養をあげつらう者もいたため、ロッティは記者達に不信を抱くようになり、多くの取材を拒否するようになった。

また興味本位に自宅を通り抜ける多くの人達に、非常に迷惑を受け、ある時などは憲兵隊に警備を依頼したこともあった。
(それにも関わらず、彼女はその後40年以上の間、基本的には何一つ否定することなく、多くの人達に出来事を語った)

1993年のインタビューの時、彼女は「もう一度生まれてきたら、見たものについて何も言いません」と言った。
彼女が大勢の人の注目を集めてしまったことに非常に悩まされ、1954年にも牧師がロッティから同じことを聞いたということを確認した。

およそ1年後/ロッティ夫人再びの目撃

ロッティ夫人自身、およそ1年後の早朝5時頃、もうひとつの目撃をした。
彼女が他の人達(彼女の夫と他の10人くらいの人々を含む)(別な情報源では、2~3年後に起きた、彼女の夫ともう一人の友だちを伴った事件と関連させている)とともに小麦を収穫している間、明るい円形の物体が空中を高速に飛行しているのに気付いた。
もう一つの情報では、若干の明るさの、黄色がかったオレンジ色の物体が、非常な速さで近くの都市シエナの方に飛んでいたという。UFO研究家のPaolo Fiorinoは物体は、飛行時の形がアイスクリームのコーンと同様の、逆さにした漏斗に似ていたという。

1993年にロッティ夫人は、2つの大きな赤いボール――それは最初農夫によって発見された――が音もなく飛行していたのを目撃したと語った。
それは明るく輝いたので、物体は炎のように見えた。

関連のはっきりしない事項

10月31日晩の犬の行動

11月1日の現場を見に行き穴と焼けこげの痕を目撃したと語る、当時少年だったセルジオ・フェリシオーニは成人してからのインタビューで、彼の父が「事件前夜に家の近くで犬が吠えていたのは、なんらかの遭遇があったのかもしれない」と言っていたという。
最初は犬が地震を予知して吠えているんじゃないかと思っていたそうである。

11月1日午前7時30分ごろ、兄弟の目撃

1955年3月2日の地方紙は、A・トルジーニ(Torzini/6歳)、M・トルジーニ(9歳)という二人の子供達についての記事を載せた。
記事では、子供達が同じ森で豚を世話している時、話し声に気づき、ロッティ夫人が小さな人達と空き地で話をしているのを目撃した、と伝えた。
上の子は父親を探して逃げ出したが、現場に戻ってきた時には事件は終わってしまっていた。
いずれにしても、彼は証拠の痕跡を確認することができた。

この話の出どころはA少年が学校で書いた作文で、注意を引いた教師によって記者に伝えられた。
子供達は記者によって質問されたが、彼らはそれぞれお互いに否定した。
話す内容も曖昧で信憑性に疑いがあり、ロッティ夫人の事件を報じた人気週刊誌La Domenica del Corriereに載った鮮やかな色の表紙絵に影響された、空想ではないかという疑いに至った。

それでも1997年に、UFO研究家のマッシミリアーノ・グランディ(Massimiliano Grandi)とファブリージョ・マッシ(Fabrizio Massi)は、二人を探して話を聞いた。
兄弟のうちの一人は紡錘形の物体、物体と関係ないロッティ夫人自身について、地面の穴について、の非常に曖昧な記憶を思い出した。また、現場で若干の焼け跡が見られたという。「小さな人達」についての記憶は、さらに曖昧だった。
そうした記憶は、グランディからの取材依頼の手紙を受け取ってから思い出したという。
もう一人の方は、「遭遇に関連したことは何も見なかった。全ての話しがロッティ夫人の自作自演によるデタラメだ」と主張した。

伝えられるところによれば、地方紙の記事が出る前に、子供達は目撃について尋ねる一般人によって、数回連絡を受けていた。

ロッティはイタズラにはめられた?

事件数日後、Il Giornale del Mattiono紙にローマから匿名のハガキが届いた。
それによれば、全ては自分達数人によるイタズラで、ロッティ夫人はその被害者だったと書いてあった。
「小さい人達」用のコスチュームと、森での遭遇場面の写真までも存在していたとも言われる。(しかし11月上旬の朝、薄暗い木々の間でそんな写真を撮れるとは思えない)
イタズラということを証明する客観的な証拠もなく、結局この告白自体が信用ならないものだと判断されたようだ。

イタズラ説は、遭遇の直後にも同様に考慮されていた。
ロッティの家と土地の所有者の息子のトティ(Toti)氏は、一部の冗談好きが二体のゴム人形を空き地に置いたのを見たんじゃないかとロッティに言った。しかし彼女は、自分が見た「生物」は生きていて、歩き、話し、笑い、まばたきをしたと言い張った。

ジェノバの女性の目撃

日付ははっきりしないが、ロッティの遭遇の前後に起こった事件として、目撃者の女性から訪問を受けたことがあった。
夫を伴って、ジェノバからロッティの家にやって来た女性は、以下の様な話をした。
夕暮れ近く、彼女が友人と一緒に家の近くを歩いていた時、目の前に紡錘形の物体とその近くで動く二人の人を見つけた。
その内の一人が理解できない言葉で話しかけてきたので、友達は後ろを離れて歩いてくる二人の夫を呼びに逃げ出してしまった。
友達が夫達を連れて現場に急ぐと、途中でこちらに歩いてくる彼女に会った。彼女はまったく恐れを見せていなかった。
彼女によれば、二人の生物はロッティが遭遇した「小さい人達」に似た服装をしており、やはり何か小さな物を渡そうとしてきたという。
しかしその友達の女性は、女性が嘘を付いているとして、その出来事を否定した。

名前も日付もはっきりしない事件であり、書き方のせいかもしれないが、話の視点が「ジェノバの女性」から「友達」に途中から変わっているなど、おかしな点も多い。
ジェノバの女性は結局その二人の生物と何をして、どう別れたのだろう? またもや差し出した小物を受け取らなかったとしたらもったいない。
信憑性についてはかなり黒に近いのではないだろうか。

ささやかれる幻覚説

国営テレビの取材では、ロッティは「小さい人達」よりもさらに奇妙な遭遇を思い出した。そのため、ロッティが体験したものは幻覚だったのではないかという説がある。

注:そのさらに奇妙な遭遇については資料に書かれていない。

しかし地元の医者、そして一部の記者はその説を否定した。
ロッティ以外によるUFO目撃などを考えると、幻覚説は証明するのが難しいという。

ロッティ夫人の人となり

ロッティ夫人は、チェンニーナの北にあるテッラヌォーヴァ・ブラッチョリーニ(Terranuova Bracciolini)で1914年に生まれた。結婚して4人の子供がいる。
彼女の住むラ・コリーナ農場は、小さく、孤立した、電気の通っていない、新聞もめったに届かないところで、メディアに接するといえば時々地元の映画館で映画を見る程度だった。
彼女を知る村人たちからは、素朴で真面目な女性という評判だった。

ロッティ夫人は写真に撮られることを嫌った。後に、彼女が初めて自分から写真を撮りに行ったのは58歳の時(1962年)だったと語った。
事件当時の記者達による写真が何枚も残っているが、報道としてやむを得ず撮られたんじゃないかと思う。

彼女は空飛ぶ円盤や火星人について、それまで耳にしたことがなく、円盤や宇宙に関しての知識は皆無だった。
ただし別な情報によれば、事件前の晩、ロッティの家族は当時の別な円盤の目撃話についてちょっとした会話をしており、彼女も2~3回前の目撃例についての言及をしていたという。

注:前夜の会話についての情報が正しいかどうかは不明だ。

考察

情報の精度

この事件は他の事件に比べればよく調査された方だが、事件直後の調査は十分でなく、より専門的な調査の多くはかなりの時を経てからのものだという。
そのため、事件直後に新聞や週刊誌などで報告された内容と、時を経た後の取材の内容とで、細かい点で若干の違いが生じている。

荒唐無稽と切り捨てられない事件

事件を報じる11月14日付Tutti誌
ニコニコした怪人が友好的に話しかけてきた上、どうでもいいような物を奪って去っていくという、非常に奇妙な事件である。
寝ぼけて幻でも見たんじゃないかと一笑に付してしまいそうだが、現場の穴、複数の人のUFOの目撃証言があるため、そうとばかりも言っていられなさそうだ。
もっとも、大きな事件の後には「自分も似たようなものを見た」という人が必ず現れるので、その証言が誤認や嘘でないか、慎重になる必要がある。今となってはそれを調べることは困難だが。

ロッティ夫人の証言に頼れば、小人達は夫人と出会っても特に驚いた様子は見せていない。
彼らの正体が何なのかはわからないが、慌てずに友好的なコミュニケーションを取ろうと試みていることからして、地球に人間という生物がいることは当然知っていたことは明らかだ。

ストッキングとカーネーションを奪ったというのも、仮に異星人が現地の生物(人間)に遭遇した場合、その生物が手にしているものに関心を示し、それをサンプルとして採取することはそんなに変なことでもないと思う。(人間だって動物の生態調査に排泄物を採取するくらいだし)
夫人が履いていたストッキングを、無理矢理脱がせたというのならともかく。

この事件に限らず感じるのは、UFOの搭乗者達は自分達の行動を秘密にしたいのか、公にしたいのかわからない。
価値観が違うために理解できないだけなのかもしれないが、地球人にはできるだけ当たらず触らず、多少は見つかってもいいけれど、あまり大っぴらなところに出て行きたくはないという煮え切らない態度が感じられて歯がゆい。

現場の穴

現場の穴というのはロケットを噴射した痕のようなものをイメージしていたが、何かを突き刺したような穴だという。
あの有名なイラストを信じれば、紡錘形をしたUFOの本体のとがったところが突き刺さっていた所だろうか。
後述するとおり、UFOを支える細い足は実際はなかったという。

焼けこげについては、ロッティ夫人の娘、トルジーニ兄弟、セルジオ・フェリシオーニという、いずれも当時子供だった人物からしか証言が得られていない。それも40年近く経ってからの証言だ。信憑性には疑問が残る。

そもそも、この現場の穴も焼けこげも、写真が撮影されていない。穴はすぐに踏み荒らされてしまったとはいえ、参考までにその位置を写した写真すらないものだろうか。
もし現場に焼けこげがあったなら、そちらだけでも写すのが自然な取材であるから、やはり焼けこげはなかったと考えるほうが適当だと思う。

ハロウィンとの関係は?

事件が起きた日の万聖節の前日(10月31日)は、ハロウィンの日だ。
調べると、ハロウィンは万聖節の前夜祭として、秋の収穫を祝って悪霊を追い出すためのお祭りで、アメリカではカボチャの提灯を飾り、夜に怪物に仮装した子供達が近所を回るとあった。
前の晩にハロウィンで仮装した子供という説も考えてみたが、イタリアでは仮装行列はおろかハロウィン自体あまり重要視されていない様子だし、目撃されたUFOも説明できそうにない。

有名なイラスト

LA DOMENICA DEL CORRIEREより
当時この事件をイラスト付きで伝えたのが"LA DOMENICA DEL CORRIERE"(ラ・ドメニカ・デル・コリエール)というイタリアの大衆紙の1954年11月14日版だ。絵はウォルター・モリーニ(Walter Molini)という人が描いた。
この新聞はゴシップ記事中心の大衆新聞らしく、人魚やヘビのような体の猫の話など、怪しげなオカルト話も結構載っていたようだ。

最も初期のイラスト。UFOの足は誤りである。
事件翌日には他の新聞でも報道がされているようなので、大衆紙の捏造記事というわけでもなさそうだ。
筆者はようやく洋書でロッティ夫人の写真を拝むことができた。イラストにそっくりなので、事件当時、早い段階から写真が公開されていたことがうかがえる。

ただし、描かれている物体の細い足についてはロッティ夫人は一切証言していない。
事件翌日にIl Giornale del Mattino紙に載った想像図(図・おそらくロッティに取材した記者の一人が描いたのだろう)を参考にしたと思われる。

ロッティ夫人の証言の信憑性と地域文化の影響

24年後(1978年?)のロッティ夫人
イラストからは遭遇が明るい昼間に起こったような印象を受けるが、実際は日の出前のかなり薄暗い時間帯だ。
そんな中でのわずか5〜10分程度の遭遇なのに、UFOや小人達に関する記憶がかなり細かく具体的であることに驚かされる。
この他の事件でも同じだが、目撃者が「そうだったかも知れない」くらいに曖昧に答えたものが「そうだった」と断定した形で記事になり、時を経るごとに自身でも「そうだった」と記憶の修正がなされていく可能性もある。
遭遇そのものまでは否定できないものの、UFOや小人達の描写については実際と大きくかけ離れていることは十分ありえるだろう。

また参考にした洋書で指摘されていたのが、UFOや小人達の描写が、当時各地で語られていたUFOと宇宙人の姿と大きく異なり、どこか19世紀後半〜20世紀前半のイギリスのビクトリア朝の雰囲気があるという点だ。

そもそもロッティ夫人は証言の中で自分が遭遇したものを一貫して「小さい人達(little men)」と呼び、「火星人(Martians)」とは呼ばなかった。
紡錘形の物体も最初は建設現場の大きな用具入れと思い、その後アメリカなどによる秘密兵器の乗り物とそのパイロットではないかと思っている。
小人達の服装の描写にも、パイロットのような耳あて付きのヘルメットや光るボタン、袖の階級章など、一昔前の兵士を連想させる。

円盤や宇宙人に対しての知識がないロッティ夫人でも、過去の写真を見てそうした様式の服装や文化についての知識を持ち、それがUFOと小人の記憶上の描写に影響を与えたことは想像に難くない。
人は未知のものを見た場合、過去に見たことのあるものに当てはめてその記憶を作るのではないだろうか。

また洋書ではロッティ夫人が非常に写真嫌いだったことから、小人達が取り出した箱からカメラを連想し、その嫌悪感がきっかけとなって起こされた白昼夢という可能性も指摘している。
遭遇全体を否定するというより、見たものに関しての記憶が歪められる原因の一つになったと解釈した方がいいかもしれない。

まとめ

半世紀以上前のこの事件は、「UFOと宇宙人の話」+「森のいたずら妖精の話」が重なっているような印象も受ける。
典型的なUFO譚に毒されていない、田舎の夫人の目を通した事件と言えるだろう。
もしこれが現代だったら、(ロッティ以外が目撃したUFOも含め)UFOの形は円盤型や三角形、小人はグレイの姿になっていたのかもしれない。
ロッティ以外が目撃したUFOの形が紡錘形だったという証言も、ロッティの証言に引っ張られて記憶が変ってしまった可能性を十分に考慮しなければならない。

証言を全て肯定することも否定することもできない。何があったのかは永遠の謎である。

参考資料

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